2013年7月14日 鄭泰奭教区長様「悔い改めなければ」

み言訓読:

「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。」(ルカによる福音書 第13章1~5節)

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロの第二の手紙 第3章9節)

「我々がイエス様と同じ蕩減復帰をするには、霊的3年間以上、肉的3年間以上を費やさなければ、霊肉ともの勝利の基台を結びつけることができない。それで7年間という年月が必要になってきた。7年間は全部がみ旨のためにこの天国をつくらなければならない。」 (「一心不乱一生懸命」より抜粋)

 

責任と服従

信仰者と非信仰者の違いは、「悔い改める」ことができるか否かです。自分が強い人(プライドが高い人)は悔い改めが難しい。また真のお父様(文鮮明師)はサタンが一番できないことは、恩讐を愛することと、心から絶対的に服従することと言われたことがあります。これがサタンが嫌がることです。服従することは沢山あります。お金に服従するとか、権力に服従するとか、知識に服従するとか。しかし、心から服従するのは嫌がるものです。服従するには自分を否定しなければならないからです。ですから信仰の道は易しい道ではありません。多くの人が信仰の道を来たけれども多くの人が消えてしまったのは、服従ができなかったからです。悔い改めるためには、すべては自分の責任だと思えるかどうかです。だから真のお父様は、世界のすべての問題に対して、自らの責任だとして、中東で起きている戦争にしても、また毎日神様を知らずに死んでいく多くの人たちに対しても責任を感じて、神様を早く多くの人に伝えるかを自分の責任だとしてこられました。

 

悔い改めとペンテコステ

悔い改めこそが、出発のための前提条件です。ですから洗礼ヨハネが来た時、「天国は近づいた。悔い改めなさい」と。イエス様の最初の一言も「悔い改めなさい」でした。悔い改めなければ始まらないということです。イエス様が十字架で亡くなって3日後に復活して以降50日後にペンテコステが起こり、聖霊が降臨して大役事が起こりました。ペテロの一言で3000名が悔い改めて、次々に役事が起きてキリスト教が始まりました。

 

見ないで信ずる者は幸いである

イエス様が十字架にかかった時は、弟子は散り散りになってしまいました。私たちが信じていた主が十字架で亡くなるとは夢にも思わなかったのです。メシヤを見る観点が違っていたのです。メシヤを中心として天国を創るという観点ではなかったのです。メシヤを利用してユダヤを世界の上に置こうと見ていたのです。だから十字架につけられた主を見て、自分の人生が間違ったと思って故郷に、元の仕事に戻ってしまったのです。

そこで、復活されたイエス様が女性たちに現れ、その女性たちからイエス様が復活したことを知らされたペテロたちは、墓を確認してイエス様の遺体がないので、復活したことを確信したのです。しかし多くの弟子たちはそれでも信じないので、イエス様は魚を食べてみせたり、それでも信じない弟子がトマスでした。

トマスが、あなたの釘の穴を見ない限り、槍で刺されたあなたの腰を見ない限り、あなたの復活を信じられませんと言うと、イエス様は、それでは触ってみなさいと。そして、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見 ないで信ずる者は、さいわいである』」。と語られました。今私たちは、真のお父様の聖和に対して、そして私自身の今までの歩みに対して悔い改めなければなりません。そして本当の悔い改めは、行動が変わることなのです。

 

 

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