2013年7月28日 鄭泰奭教区長様「奇跡の秘訣(ひけつ)」

◇今日のみ言:

亡くなったイエス様の墓を訪ねていった人は誰でしたか。その人は、人々が見て微弱な存在でしたが、その人が正にマグダラのマリヤでした。この村から追い出され、あの村で非難され、あちこちで一身に嘲笑を受けていくイエス様を、誰よりも愛する心をもってついていったマリヤでした。このように懇切なマリヤの前に、イエス様は復活の身で現れたのですが、これは、終わりの日に、全世界のキリスト教徒たちに、彼らの行くべき道を見せてあげた象徴なのです。

 

真の愛を中心として一つになるためには、「真の父母」がいなければならず、その次には、血統的に重生するにも、「真の父母」がいなくてはいけないのです。

 

ろうそくは、それ自体が犠牲となって光を発します。このように神様を中心として人類が一つになるためには、犠牲にならなければならないということを象徴しています。

 

皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されれば慰められます。しかしながら神様は、誰よりも悲痛さを感じていらっしゃるがゆえに、神様を慰労し得る立場にいる人は一人としていないのです。始まりも神様ご自身であり、終わりも神様ご自身なので、その心の中にしこりとなった怨恨をいかにして解くかということが、今までの神様の内情的な事情なのです。神様は、このような事情を抱き、今まで復帰摂理をしてこられたのです。 皆さんは、神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は、私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけでなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。                              (「文鮮明先生 み言選集」より)

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奇跡を起こすには

キリスト教では、まず縦の関係が先であって、後に横の関係がくるのです。だからイエス様も、まず「主なる神を愛せよ」と言われた上で、「隣り人を愛せよ」と言われたのです。なぜクリスチャンが2000年も隣り人を愛し続けて、発展してきたのかと考えれば、隣り人を愛するんですけど、その前にイエス様を徹底的に愛することで、イエス様の全てを愛するようになるからなのです。

イエス様のみ言や指示全部を愛する。親や家族よりも私を愛しなさい、そして、私を愛するように隣り人を愛しなさいと。ですから隣り人を愛する根拠はイエス様のみ言にあるのです。

 

三弟子とマグダラのマリヤ

ゲッセマネの園で、三弟子はイエス様と一つになれなかった。イエス様は最後の奇跡を起こすために、三弟子を連れて一つになって欲しかった。しかし、祈って降りる度に弟子たちは寝てしまった。一つになれなかったのです。どれだけ心情圏が遠いのか。しかし、真のお父様が興南収容所にいらっしゃった時、6.25動乱で空爆があって大変な時、私か12m以内に入れば大丈夫だと。その言葉を絶対的に信じた人には奇跡が起こって生き残りました。今日のみ言にあるマグダラのマリヤもそうです。この時間、おそらく世界中でこのマグダラのマリヤについて説教が行われているでしょう。真のお父様のみ言にあるように「全世界のキリスト教徒たちに、彼らの行くべき道を見せてあげた象徴」だからです。イエス様が十字架にかかったことで散らばってしまった弟子たちは外的には一つになっているようでしたが、本当の意味では一つになっていなかったのです。イエス様というメシヤの権能を通して何かを得ようと思っていたのです。その方が死んでしまったので、もう何も無くなったとして散ってしまったのです。しかし、マグダラのマリヤは、何かを得ようとしたのではなかったのでお墓を訪ねたのです。死をもってしても切れない、真の愛を中心として、神様を中心として一つになったからなのです。

 

ローソクのように

また真のお父様は、一つになるには、ローソクのように自らを削って光を発するように天のために何らかの奉仕によって犠牲になることで教会に愛が溢れるようになり、もっと奇跡がおこるようになります。

 

事情に通じて一つになる

3.11の際に津波で家族を失った人に何も失わなかった人が慰めても慰めにならないように、同じように家族を失った、あるいはそれ以上失った人が慰めれば、すぐに抱き合って一つになれるのは事情が通じているからです。一つになるには事情を共有することです。神様と一つになるには事情を共有することです。真の父母様と一つになるには事情を共有しなければできません。神様の事情は、愛する子供を失って6000年間探しまわった心の痛みなのです。ですから私たちが神様と通じる内容は、一人の子供を探しました、これが探したてた子供です、と言う内容であり、これで神様を慰められるのです。私が最初の牧会生活を韓国の大田(テジョン)で送った時、数多くの人々を祝福に導いた婦人がいましたが、その方は祝福式の場に対象者を連れて行き、席に着くや否や、涙を流し始めて終わるまで泣き続けるのです。その時、私はなんでこんなに泣くのかと思いましたが、堕落によって愛する子供を失い6000年間探し回った神様の心情に相対して、一人を伝道して祝福式に動員するたびに数々の山を乗り越えて、祝福式に導いてきたら、このように涙が出るんだなと思いました。

 

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