2013年11月3日 鄭泰奭教区長「真の父母様の在世時に同参する価値」
今日のみ言:
それで、父母は二組存在することができますか。一度死んだ父母が、千年後にも再びパッと現れますか。人類の父母が一度現れるのが、歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いであるために、その父母が現れる時は、あとにも先にもない時であり、歴史上に一度しかない、てっぺんなのです。狭いといえば、どれほど狭いですか。永遠の世界について見れば、人間の一生というものは、一息つくのと同じです。そうでしょう?
皆さんが、運があってそうなのか、福があってそうなのかは分かりませんが、このようにしてこの時代に生を受けてこの一時に出会い、統一教会に入ってきました。統一教会にどのように入ってきましたか。皆さんをこの場に入るようにするまでには、数多くの先祖たちが精誠を捧げに捧げました。数多くの人たちが滅び、善が踏まれる場で死んでいきましたが、その千人、万人の因縁を経て、回りに回ってその因縁が天につながって、日が昇る高い山のような立場に立ったために、そこで日の光を眺めて集まった人たちが皆さんなのです。
(天聖経「真の父母」より)
多くの犠牲
ロトに当たる確率よりも、再臨のメシヤに会う確率の方がどれだけ難しいか。再臨のメシヤに会う方がはるかに難しいのです。ですから再臨のメシヤに出会った私たちはロトに当たった時よりはるかに感動していなければなりません。皆さん互いに顔を確認してみてくださいい。今まで数多くの先祖たちが血を流しながら、ローマ帝国迫害の時代400年、コロッセウムでキリスト教徒が動物の餌食にされながら名もなくどれだけ死んでいったか。10万名とも言われますが、1日に100名づつ殺すという、だから首を切る時に使う斧の刃がぼろぼろになって、ところがキリスト教徒は一つも怖がらずに、5万名が入るコロッセウムですが、動物に囲まれながら讃美歌を歌い祈り、その祈る顔には平穏があり恐れが無かったのです。その姿をみてローマ人は衝撃を受けて、あの人たちには何があるのだろうかと、やがてローマの国教になったのです。その名もないキリスト教徒たちの願いも真の父母に会うことだったのです。でも会えなかったのです。
我々の立場
これまで我々の数多くの先祖たちが精誠を捧げてきました。ですから私たちは数多くの先祖の代表なのです。だから私たち、再臨のメシヤに会った後孫たちが結論なのです。ある時は、事故で死んだり、突然死んだ人もいたでろうし、善を行うために生きながら、迫害され、殺される人が数多くいたのです。その人たちの結実体なのです。その千人、万人の因縁を経て、まわりまわって繋がってきたのが我々というのです。我々です。この一時出会せるために、その誰かは分からないとしても、後孫の誰かが再臨のメシヤと出会って欲しくて自分たちが犠牲になり死んでいきながらも、基準を立てて、集まった群れが私たちです。
召命
だからこの時代に、真のお父様が逝かれたとしても、まだ真のお母様がいらっしゃるこの時に、我々が息を吸っている、夢を真の父母様と共にする、その歩みに同参することは、全先祖の結論であり、願いなのです。皆さんすべてがそんな背景を持っているのです。そして伝道される時にもそれぞれ理由があります。皆さんが選んだ訳ではありません。選ばれたのです。真の父母様の血と涙の代価を払って、先祖の犠牲を払って、皆さんが選ばれたのです。
私たちの夢
生きて真の父母様に同参することがどれだけ価値があるのか。現実のものに価値があるのではないのです。この内面的な、霊的な価値に我々が共有して、夢を共にしていく、1963年8月28日、アメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師がワシントンDCであの有名な “I have a dream”という演説をしました。”私には夢がある”、黒人も白人も差別なく、平等になって宗教が違うから、皮膚の色が違うといって、差別されることがないようにと演説しましたが、私は今日、この場で似てる話をしたい。”I have”ではなく、”We have a dream(私たちには、一つの夢があります)”と。
私にも夢があります。それは、この茨城に真のお母様を迎えたい。成田空港でもなく、羽田空港でもなく、茨城空港でお迎えしたい。宣布すれば実現されます。そして真のお母様がタラップを降りた時に、私たちだけで迎えるのではなく、茨城県知事、(教会のある)土浦の市長が、水戸の市長が、日立の市長が、鹿嶋の市長が迎えて欲しいと願ってます。国会議員や市議会議員が真のお母様を迎えて欲しいと。他のどんな有名なタレントが来るよりも歓迎されて迎えるようにしてあげたい。私は隅っこで涙流しながら拍手しながら、見つめていることができれば良いと思ってます。そのような夢を持ってます。我々はこの夢を大事にして歩んでいきたいと思います。(アージュ)